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事実は存在しない。あるのは解釈だけ。

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http://agora-web.jp/archives/1648334.html

たしかに!
解釈だからダメだと言ってみても、そもそも解釈しかないんだから…
ところで、事実も存在する。という解釈によって、事実は存在しうるの?

人間にはその答えを決めることはできない。なのに
現実社会において、決めざるを得ないものは決めざるを得ない。 という局面がある。
事実は何か?を決める権利をもつのがその時の権力だったり法だったり空気だったりする。
でも、その決定はあくまで人間が行うもの。なので、
絶えず覆されて変わらざるを得ない。が歴史で、
その歴史も本当は存在してなくて、 今現在を解釈するのに必要なので、
歴史があったものとして解釈している。 だけなのだ。

事実はあるかもしれないし、ないかもしれない。
解釈はいろいろあって、どうにでもなる。
なので、とにかく、一方の解釈で事実を決めることはできない。
決めることができない。のに決めなければならない。をどうするの?
が、提出された問題だ。

ニーチェが言った「力への意志」の「力」の解釈は難しい。
親鸞が言った悪人正機と同じくらい解釈は難しい。
どんな解釈も許されるのでなんとでも解釈できる。
が、もちろん、そんな浅い勝手な解釈は許されない。
許されているのに許されない! なんのこっちゃ!!
悪人こそ救われる。が悪を推奨するわけじゃない。に似ている。

事実は存在しない。は解釈次第でニヒリズムになる。
その解釈で生きてくことは難しい。ので、事実は存在する。と解釈する。
のは合理的じゃないけど合理的なのだ。 なんのこっちゃ!!

いずれにしても、最終的には、阿弥陀如来に救われるので、
人は、安心して、事実は(本当は存在しないけど)存在する。と解釈して生きればよい。

まあとにかく、「神は死んだ」の意味は、単純に、
イエスがイエスと言ったからイエスなわけじゃない! てことだ。
人にはそれを(正しいことを正しいと)言い切れる能力はないのだ。
「神は死んだ」「事実は存在しない」・・・は、
わざわざ一旦それを言ってかかる必要がある。てことなんだろう。

結局のところ、 ニーチェも親鸞もアジャイラーも似たことを言っている。
と、なんでここに突然アジャイラーが登場するのっ!? 迷想はつづく・・・

Written by nasu38yen

2015年7月15日 @ 10:34 PM

カテゴリー: つれづれ

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